日本ペンクラブの歩み
日本ペンクラブは2022 年に創立88 周年を迎えます。創設から現在まで、絶え間なく流動 する世界の中で、着実な歩みをすすめた歴史を見ていきます。
国際P.E.N.の創設と日本ペンクラブの夜明け
文学に何ができるか? 第一次世界大戦後の荒廃を目の当たりにした欧州の文学者たちは考え込みました。「戦争のとき、まず犠牲になるのは真実だ。言論と表現の自由を守り、書き手たちが国境を越えて作品を理解し合い、語り合うことこそ、戦争を食い止め、平和に寄与する道ではないか」。1921年、そう思い至った文学者たちによって国際P.E.N.は創設されました(本部はロンドン)。
そのころ日本は、関東大震災、治安維持法、昭和恐慌、満州事変と、やがて歴史の泥沼へと落ち込む崖の縁に立っていました。国際的孤立を深めるなか、文学者たちは「せめてわれわれは諸外国の作家たちと交流をつづけよう」と動き始めます。1935(昭10)年11月、日本ペンクラブは島崎藤村を会長に、約100名の文学者によって設立されました。会長自身が南米で開かれた国際P.E.N.大会に参加し、夏目漱石や芥川龍之介の翻訳紹介が始まるなど、滑り出しは順調かに見えました。
しかし、日中戦争の開始、真珠湾攻撃・太平洋戦争への突入という緊迫した時代は始まったばかりの活動を窒息させていきます。「もはやわれわれは連絡することすら不可能な状態にある。しかし、われわれは存在する」。当時、日本ペンクラブが国際P.E.N.に送ったこの電文が、当時の苦衷を物語っています。自由な言論は封殺され、もはや会合を開くことすらできないまま、1945(昭20)年夏の敗戦を迎えます。
武器なき国の建設と冷戦期の国際ペン大会
敗戦後、国内のそこここに焦土が残るなか、日本ペンクラブは「文化国家の建設、即ち心にも手にも武器なき国の建設がわが文化人に與えられた任務である」と再建の覚悟を内外に表明し、1948(昭23)年6月、国際P.E.N.に復帰しました。
しかし、戦後の東西冷戦下、新興国も独裁に陥るなど、国際情勢はあちこちで緊迫しました。この時期、日本ペンクラブは国際P.E.N.大会を東京に招致します。最初は1957(昭32)年、テーマは「東西文学の相互影響」。次は1984(昭59)年、テーマは「核状況下における文学」。文学は現実政治に直接関与しないが、そこで生きている人間の生命と運命には深く関わっている。こうした大会のテーマには、きびしい時代をくぐり抜けてきた作家たちが、あらためて文学の可能性を問おうとした姿勢が示されています。
また、これらの大会にスタインベック、ヴォネガット(米国)、 モラヴィア(イタリア)、 シリトー(英国)、ロブ・グリエ(フランス)、巴金(中国)らが参加したことは、日本の読者を外国の作家・作品に近づけ、読書の幅を広げていくきっかけとなりました。
そして、80年代末から90年代にかけて起きたベルリンの壁の崩壊とソ連の解体。世界は21世紀に向け、戦争の世紀に終わりを告げて歩み出すはずでした。
テロと戦争と天変地異の世界で、文学的な模索
21世紀の幕開けは荒々しいものでした。ニューヨークで起きた9・11同時多発テロは、グローバル化した資本が各地で格差を作り出し、憎悪と暴力を生み出している実態を明らかにしました。その一方、地球規模で顕在化した気候異変と、アジアで頻発した大地震や大津波などの自然災害は、街や都市の暮らしがいかに危ういかを浮き彫りにしました。
これらの現実を前にして、日本ペンクラブはあらたな文学的模索を始めます。その最初は、米国がアフガニスタンにつづいてイラクに攻め入った2004(平15)年、『それでも私は戦争に反対します。』(平凡社)の刊行です。これは、あらゆる戦争と暴力に反対する、という創立以来の理念を再確認するとともに、その思いを数十人の作家たちが小説や詩やエッセイなどに表現したものでした。
さらに2008(平20)年2月、独自に企画した世界P.E.N.フォーラム「災害と文化――叫ぶ、生きる、生きなおす」の開催。ここでは中国、インドネシア、サモア、米国、日本などの作家、映画監督、ミュージシャンらが登壇し、絵画・映像・演奏によって多彩に表現された作品を朗読するなど、これまでにない文学的表現によって人間と自然との関係に光を当てました(中国から参加した作家、莫言は4年後、ノーベル文学賞を受賞)。
そして、3回目となる2010(平22)年の国際P.E.N.東京大会の開催があります。テーマは「環境と文学――いま何を書くか」。グローバル市場・多元文化・電子的ネットワークという人工環境と自然環境がせめぎ合い、政治と国境と宗教が人々を分断する世界にあって、何を書くか、何を表現するか。アフリカ、中東、欧米と日本の作家たちの作品を朗読・映像・演奏によってステージ化した文学フォーラム、ノーベル文学賞作家・高行健らの基調講演、日本ペンクラブ各委員会が企画した各種セミナーには数千人の観衆が詰めかけました(この大会で中国政府に釈放を求めた人権活動家、劉暁波は1ヵ月後、ノーベル平和賞を受賞)。
しかし、このとき、災害や環境をテーマに国際的イベントを実現してきた日本ペンクラブの誰も、半年後に起きる大惨事を予想だにしていませんでした。
原発と憲法と動く現実、文学に何ができるか?
2011年3月11日、東日本大震災。最大震度7、大津波による死者・行方不明者2万人、全半壊の家屋40万戸。これに、東京電力福島第一原発のメルトダウン事故が追い打ちをかけ、避難民は40万人を超えました。1000年に1度とも言われる大災害は、日本ペンクラブにも激震となりました。
多くの会員が取材やボランティア活動で被災地に駆けつけました。原発被災地に入り、独自のレポートをする。津波被災者の聴き取りをする。仮設図書館を設置する。さらにチェルノブイリを訪ね、原発事故がもたらす影響を調査する……。こうした活動の一方、日本ペンクラブは『それでも私は原発に反対します。』(平凡社)を刊行します。数十人の書き手たちが寄せた小説、戯曲、エッセイは原爆と原発を生んだ核エネルギーの危険性と、そこに依存する現代世界がいかに危ういかを真正面から描くものでした。
私たちはたえず動く現実に生きています。収束の見えない原発事故と再稼働の動き、疲弊する地域社会、近隣諸国との軋轢、そのたびに噴き出すナショナリズムと歴史修正主義、主権在民と立憲主義の日本国憲法を否定しようと勢いづく政治勢力……。文学に何ができるか? 表現に何が可能か? 日本ペンクラブに集まる私たちは、1世紀近く前の文学者たちが、真実を犠牲にしてはならない、平和と言論・表現の自由を手放してはならないと語り合った初心を、いまあらためて思い起こしています。