ドナルド・キーン氏を偲んで(2012年「ペンの日」の懇親会での記念スピーチから)

ドナルド・キーン氏を偲んで(2012年「ペンの日」の懇親会での記念スピーチから)

ドナルド・キーン氏を偲んで(2012年「ペンの日」の懇親会での記念スピーチから)

 ドナルド・キーン氏ご逝去の報に接し、哀悼の意を捧げます。
 日本ペンクラブ創立の日を祝う「ペンの日」懇親会が2012年11月26日(月)18時から東京・丸の内の東京會舘で開催され、この年、日本に帰化された名誉会員、ドナルド・キーンさんが出席してスピーチが行われたましたので掲載いたします。

1957年の国際ペン東京大会
 腰を掛けて話すことは大変失礼でしょうが、90歳の老人なので、許してください。しかし私は90歳になったことが大変嬉しいです。あなたの一番いい時代はいつ頃だったかと聞かれ、たいていの人は20歳前後とか答えられますが、私は、はっきり正直に今が一番いいと言えます(拍手)。
 私が初めて日本ペンクラブの会に出席いたしましたのは、57年前です。私と同じように戦時中に海軍の日本語学校で日本語を覚えたエドワード・サイデンステッカーさんが一緒に行きませんかと誘ったからです。私は会員でないから出席できないでしょうと言うと、君はアメリカのペンクラブの会員ですから大丈夫でしょうと。
 当時の会長は川端康成先生で、その時も、有名な作家が集まっていました。私は戦時中に日本語を毎日使ってましたが、その後はイギリスで教えていて日本語を使うことがなかったので、せっかくの集まりに出席しても、話がよく分からなかったのです。その上、私はもっぱら古典文学をやっていましたので、近代・現代文学はほとんど知りませんでした。日本の小説としては林芙美子の『浮雲』と谷崎潤一郎の『細雪』の二つしか知りませんでした。当時のイギリスでは外貨の問題で、外国のお金は送ることが出来なかったのですが、戦後会った親切な日本人がその2冊を送って下さったのです。ということで、集まった人々の話はよく分からなかったし、有名な作家の名前を聞いてもどういう人か分からなかったのです。しかし私は、それでも偉い作家に会えて嬉しかったです。
 数年後、1957年9月に第29回国際ペン東京大会が日本の東京と京都でありました。私はそれ以来、数回いろいろな所で国際ペン大会に行ったことがありますけれども、あの時の会は凄かった。どうして良かったかと言うと、それまで、国際ペン大会はヨーロッパで開催され、ロンドンとかパリとかベルリンで行われる場合はそれほどおもしろくなかったからです。しかしこの会における外国からの代表の質は、今ちょっと信じられないようなものでした。例えば、アメリカの代表にジョン・スタインベック、ジョン・パソス、エリザベス・バイニング、イギリスのスティーブン・スペンダー、アンガス・ウィルソン、イタリアのアルベルト・モラビア、そういう集まりはなかなかないのです。
 それだけじゃなく、特別な雰囲気がありました。川端先生は優しい声で「9月は台風の時期ですが、どうぞご安心ください。日本には世界で最も古い木造建築の建物が残っていますから。台風はそんなに恐ろしいものではない」という意味のことを言いました。台風の話が出て、みんな怖くなって、間もなく台風が来るんじゃないかと思っていました。それで、初めのうちはちょっと冷たい雰囲気があったのです。でも、それは長く続きませんでした。発表は面白かったし、そして一番大事なのは、いろいろな代表が初めて日本に文学があることを知ったのです。その時まで、日本文学の、特に近代・現代文学の翻訳はほとんどなかった。私は日本語を勉強しているときに、日本語で書かれた小説、英訳はないかと大きな本屋で調べると、一つだけありました。火野葦平の『土と兵隊』です。他に日本の近代・現代文学の翻訳は皆無で、その時から、翻訳が必要だという感じが自然にめばえました。それは、アメリカとイギリスだけでなく、フランスでもブルガリアでも。
 私はアメリカ・ペンの代表でした。どうして私が代表だったかというと、アメリカ・ペンで日本語ができるのは私だけだったからです。新聞記者たちから、私は何回も何回も同じことを聞かれました。例えば、能を観に行ったとき、記者たちは皆「退屈したでしょう」と言いましたが、私は退屈どころか、非常に深く感激しました。当時の新聞記者は能をあまり知らなかったようです。文楽や歌舞伎も観に行きました。そして京都では見事な庭園レストランで大きなパーティーがあって、非常に国際的でした。ともかく、このペン大会から日本文学は世界文学の一部分になりました。
『源氏物語』と出会って
 その時まで、例外として『源氏物語』は読まれていました。5000部ぐらい売れたでしょう。あるいは、一部の特別な人は能に興味がありました。そういうことはありましたが、一般の人は、私を含めて、日本に文学があることを知らなかったのです。私はわりあいに良い教育を受けましたが、その教育の間に一度も、日本に文学があると教えてくれた先生はいなかった。私が初めて日本に文学があると知ったのは、18歳、1940年です。1940年は人間の歴史で非常に悪い年でした。ナチスドイツ軍は、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランスを占領、そしてイギリスへの空爆が始まった頃です。反戦主義者の私は戦争ほど許しがたい行為はないと思っていたのですが、武器を使わなければ、どういう風にドイツ軍を止められるかと、毎日毎日心配でした。新聞を読むたびに心が痛みました。毎日、ドイツ軍がどこそこの町を取ったということばかりでした。
 そしてある日、私はニューヨークの真ん中のタイムズスクエアにある本屋に入ったのです。そこは、古本屋ではなかったのですが、あまり売れ行きの良くなかった余分の本を安く売る店でした。私は学生でお金があまりなかったので、いつもそこに入って、何か安い本はないか、買い得の本はないかと探していました。ある日、2冊本が箱に入っていて、現在の日本のお金にすると50円だったでしょうか。これなら買い得だと思いました。その本は『源氏物語』の英訳でした。私は『源氏物語』の名前さえ知りませんでした。文学とはギリシャで始まり、ギリシャから他のヨーロッパ諸国に広がったものだと思っていたからです。だから、日本に文学があるとは全然知りませんでした。『源氏物語』の英訳、アーサー・ウェイリーの素晴らしい翻訳を読んで、日本に偉大な文学があるだけじゃなくて、私の救いになる本だと発見したのです。つまり、人間は必ずしも殺し合う必要がないと。『源氏物語』には戦争がなく、殺すことなどないのです。人は美のために生きていると。そういう美しい本は他にありませんでした。
 私はその時から日本に深い関心を持ち、翌年から家庭教師の下で日本語の勉強を始めました。それから現在まで日本のことを全く考えない日は一日もありませんから、私が日本の国籍を取得したことは全く自然でした。むしろ、どうしてもっともっと早くそうしなかったのかという疑問を感じたほどでした。
 ともかく私は、日本人になって、非常に嬉しく思いました。90歳になってやっと日本人になったのは遅かったけれども、非常に嬉しかったです。そして皆さんが私をこのように歓迎してくださいますことに、深く感謝いたします。どうも、ありがとうございました。

  

(白黒写真は1957年国際ペン大会当時)

記=会報委員・ととり礼治
写真=会報委員・山名美和子

会報415号(2013年1月発行)より