~ウクライナで、ロシアで、何が起きているのか?~

沼野充義[ロシア・スラブ文化専門家/日本ペンクラブ副会長]


まず初めに、プーチンの主導による今回のウクライナ侵攻は、いかなる理由をもってしても、けっして正当化できるものではないということを明言しておきたい。
現代のロシアには「ネオ・ユーラシア主義」というものがあり、それは、ヨーロッパからアジアにまたがる広大な地域が一体であり、そこには独自の民族的価値観があるという考え方で、ロシアの民族主義者らの思想的背景になっている。プーチンはこれを、ロシアの帝国主義的拡張にとって都合のいい理由づけに利用し、「ロシアとウクライナは歴史・文化などでさまざまな共通性を持っているので一体化すべきだ」と主張している。
もともとキエフ公国が中世に成立しそれが東スラヴ人の初めての統一国家になったということは小学生でも知っている。歴史的に言えば、その頃は、ロシアだのウクライナだのといったように分化しておらず、その後しだいに分かれていったのだということも、周知の事実である。
ところがプーチンの主張には、その先にナンセンスな飛躍がある──ルーツが同じだからといって、なぜひとつの国にならなければならないのか。しかも、なぜロシアの支配的な関係のもとにウクライナが取りこまれなければならないのか。この主張はまったく意味をなさないと言わざるを得ない。文化や歴史を共有する兄弟のような深い関係なら、むしろ互いに独立した国として仲よく付きあうことができるはずではないか。

第二に、人間を虐殺することは恐ろしいことだが、私にとってもっと恐ろしく思えるのは、今回の戦争を正当化しようとするためにプーチンの発している言葉が最初から最後までほとんどすべてウソだということだ。相手に批判されるとそれを相手に返す、相手の責任になすりつける。つまり言葉そのものが虐殺されているということである。これは、ロシア文学が大事にしてきた言葉を殺すということであり、ロシア文学に長らくたずさわってきた者として私はとても悲しい。
ウソの言葉の中でもひどいのは、ウクライナのことを執拗に「ファシスト政権」だの「ネオナチ」だのといった言葉で呼んでいること、ネオナチから解放してやるんだというとんでもないウソをつき続けていることだ。なぜこうした言葉が繰り返されるのかというと、歴史的な背景があるので、私たちはそれを知っておくべきである。ソ連は、第二次世界大戦で甚大な被害をこうむり、大変な犠牲を払って戦争を勝利に導いたが、そのことを、歴史的な貢献であり人類の救済であるとして非常に誇りに思っている。だから「ファシスト」「ナチ」というのは最大級の罵り言葉であり、他の国には見られない特別な罵詈雑言である。そうした言葉を執拗に持ち出してウクライナを攻撃しているのである。ウクライナにもネオナチがまったくいないわけではないが、プーチンは自分のやっていることを棚に上げて、ありもしない罪を人になすりつけている。
たしかに第二次世界大戦時、ウクライナ民族主義者が一時的にナチスドイツと手を組んだときがあったが、それは当時スターリンかヒトラーかという究極の選択をしなければならない特殊な状況があったからで、今のウクライナとはほとんど何の関係もない。
だれが考えても明らかなウソだとわかるプロパガンダには卑劣な面がある。まさかそんなことがあるわけがない、ウソにちがいないとわかるようなこと、例えばプーチンが自分の罪をすべてウクライナになすりつけるようなことを言ったとき、大部分の人はウソだろうと見抜き信じたりはしないものだが、平然と言い続けられると、そういう可能性もあるのかもしれないと人々の頭の中に刷り込まれてしまうことだ。

第三に、現在の日本のウクライナ支援の盛り上がりに水を差すわけではないが、プロパガンダというのはつねに相互的なものであることに注意するべきである。プーチンの言っていることはほとんど全部ウソだが、それではウクライナの主張がすべて真実かというと、そうではないかもしれない。攻撃している大国のプロパガンダと守っている小国のプロパガンダのどちらが悪いかは明らかだが、冷静に考えなければならないことがある。
それは、いま日本で、〈ロシア=悪、ウクライナ=善〉という、非常に単純な二項対立的な図式、わかりやすい物語が報道によって作られつつあるということも問題であると思う。ふだんウクライナのことにまるで興味のなさそうなワイドショー的番組で、さかんにウクライナ問題が取り上げられているという驚くような事態になっているが、その背後には、ロシアを100%悪の帝国、いじめられている小国ウクライナを完全な善とみなす単純思考があり、ロシアを安心して罵ることのできるものとして叩き、対立の物語を消費しているのではないか。
プロパガンダに関連してだが、ウクライナに限らず、SNSなどで流される映像を見て多くの人たちが強い共感を持ちウクライナを支援しており、そのこと自体はまったく悪いことではないが、ひとつ注意すべきと思われることがある。私たちは、戦争という巨大で複雑なものをなかなか直感的に理解することはできない。わかりやすい映像など感情に訴えかけるものを見ながらそこで判断をしてしまうが、それは戦争という現象のごく一部にスポットライトを当てているだけだということを忘れないほうがいいと思う。
これはアメリカの心理学者ポール・ブルームが『反共感論』で指摘していることである。ブルームは、世間一般に共感(エンパシー)は無条件にいいものだと思われがちだが、じつは共感にはそのような危険な落とし穴があると指摘している。泣き叫ぶ女性やさめざめと涙を流すいたいけな子供の姿というものは、これを見て共感しない人はいないだろうし、それはけっして間違いではないと思うが、戦争のような巨大で複雑な現象について理性的に考えなければいけないときには、心の片隅に入れておくべきではなかろうか。
ウクライナの歴史を見ると、1991年にソ連から独立を果たした後30年も経っているにもかかわらず、さまざまな問題を抱えているのも事実である。そのことも冷静に見ておかなければならない。ウクライナはけっしてまとまりのいい国ではなかったが、逆説的なことに、いま「対ロシア」でウクライナが一つにまとまっている。ロシアのミュージシャンのアンドレイ・マカレーヴィチが、「プーチンはウクライナを分裂させようとして逆に一つにまとめた」と言っているが、そのとおりだ。複雑な問題を抱えていたウクライナが、いま一瞬の愛国心の高まりの中で団結しているように見えるが、これも特殊な現象ではないか。
今回の事態で、プーチンは人間がどれほど悪をおかす潜在能力を備えているかを示す恐るべき例証になったが、その一方で、わかりやすい図式をつくりあげ、マスコミがここぞとばかりにロシアだけを一方的に悪者にして叩いているのは、ものごとを単純化してしまう大きな危険をはらんでいる。
また、これまでアフガン難民、シリア難民についてさほど支援に熱意があったとは思えない日本で、ウクライナ支援が驚くほど熱心に取りざたされているのは何を意味するのかも考える必要がある。
さらに、ロシア対ウクライナという図式よりさらに大きな枠組みで考えると、〈ロシア=巨悪、NATO=完全な正義〉であるという単純思考に疑念をさしはさむ人がいないことにも危惧をおぼえる。ソ連が崩壊した後、ワルシャワ条約機構はなくなっているのにNATOが存続しているという事実も忘れてはならない。

最後に第四として、今回の侵攻はプーチンが悪いのは明らかであるが、これはロシアのすべてが悪いということを意味するものではないということを強調しておきたい。ロシア文学は、こういった逆境のなかで、圧政にもかかわらず書かれてきたものである。
プーチンを一つの極端な「極」であるとするなら、本当のロシアというのはロシアの文化や文学であり、こういう機会だからこそ、そうした本当のよき文化・文学を深く理解するべきではないだろうか。ロシア語を学び、ロシア芸術の素晴らしさを認識すべきである。
ここは議論の分かれるところだが、ひょっとしたら、プーチンはロシアではないのではないか。ロシアが生みだした怪物にすぎないのではなかろうか。ロシアのまともな人の中にはプーチン批判をする人がたくさんいる。
選挙でプーチンを選び長く独裁を許してきたのはロシアの国民ではないかという人もいるし、ウクライナ人の中にもそう考える人がいることはたしかだ。しかしこれは簡単に判断できる問題ではないし、日本も選挙で選んだ政権がずっと長く続いていることに国民の責任があると考えられる。
プーチン個人がどの範囲まで悪いのかはここでは深入りして詮索するのを控えるが、少なくとも、そうしたプーチンの蛮行を見れば見るほど、その対極にある文化・芸術・文学の素晴らしさが浮き彫りになってくる。ロシア文学はずっと、野蛮なロシア・暴虐のロシアのもとにあるにもかかわらず生まれ書かれてきたのである。(文責:沼野恭子)